19世紀

ピレ・ウィル伯爵

1879年、ウジェニー后のダムドヌールであり、アグアドの息子のひとりと結婚したスコットランド人のエミリー・マクドネルが、シャトーをピレ・ウィル伯爵に売却しました。この時代はメドックの収穫率が悪く、重ねて世界恐慌と隠花植物の病気による大打撃を受けていました。
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1879年、ウジェニー后のダムドヌールであり、アグアドの息子のひとりと結婚したスコットランド人のエミリー・マクドネルが、シャトーをピレ・ウィル伯爵に売却しました。この時代はメドックの収穫率が悪く、重ねて世界恐慌と隠花植物の病気による大打撃を受けていました。

19世紀の暗黒の時代は、ブドウの木に大打撃を与えたカビ、うどん粉病、べと病という形で災害に見舞われましたが、ブドウ畑は管理人たちに引き継がれ維持されました。うどん粉病には硫黄を使用し、べと病には有名な「ボルドー液」、つまり硫酸銅を散布することで、対応することができます。米国原産のネアブラムシは、もっと深刻な被害を与える害虫で、その拡大は容赦ないものでした。ボルドーのブドウ畑を救うためには、フランスのブドウの品種を抵抗力のあるアメリカの木に接ぎ木を行うという解決法を待たなければなりませんでした。

シャトー・マルゴーの生産は徐々に再開され、ブドウの木が再び植えられました。1893年は素晴らしいミレジメで収穫量も豊富であったことから、醸造桶が不足し、6日間収穫を中止しなければならないほどでした。それは、伝説となっていたネアブラムシに襲われる前の1870年をしのぐほどだったのです。

しかし、新たに植えられた若い木からは最適な品質のブドウは収穫されませんでした。そのため、一部のワインは「セカンドワイン」として販売されたのです。つまり、それがパヴィヨン・ルージュ・ドゥ・シャトー・マルゴーです。

1896年、ピレ・ウィル伯爵はピエール・モローという一人の信頼のおける人物に出会いました。彼はその後経営者としてシャトーで中心的な役割を担い、1906年に将来シャトー・マルゴーの株主となる組合をまとめました。

彼は、Marcellus Grangerouを醸造責任者に任命しました。その跡は息子、マルセルとその孫ジャンによって引き継がれました。

ピエール・モローの業績で最も重要なものは、「Mise en bouteille auchâteau」を義務付けたことです。これは、1924年に採用され、ワインを購入する人々にとってそれが本物であることを確認する印となっています。