1977年

アンドレ・メンツェロプロス:
「メドックのギリシャ人」

1977年、シャトーはアンドレ・メンツェロプロスの手に渡りました。シャトーの柱廊を飾るイオニア式の柱が彼の生まれ故郷であるギリシャを想起させ、彼の鋭い知性を刺激し、マルゴーを再びトップの座につけることを試みる気をもたらしたのです。
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1977年、シャトーはアンドレ・メンツェロプロスの手に渡りました。シャトーの柱廊を飾るイオニア式の柱が彼の生まれ故郷であるギリシャを想起させました。そして、彼の鋭い知性を刺激し、マルゴーを再びトップの座につけることを試みる気をもたらしたのです。

この偉大な人物にはなんというロマンがあったのでしょうか!彼は1915年、ペロポネソスのパトラに生まれました。ホテル経営者であった父は子供たちに複数の外国語を熱心に教え、多くのギリシャ人の夢であった外国に旅立ち、富を得るという夢をかなえさせようとしました。

アンドレは、そんな父の夢を実現し、グルノーブルで文学の勉強をした後、中東、ビルマ、中国、インド、パキスタンに旅立ち、穀物の貿易業で財を成したのでした。

ヨーロッパに戻った彼はフランス人女性と結婚し、1844年に創業され、エリアで食料品店を80店舗所有するフェリックス・ポタン社を1958年に買収しました。アンドレはこの会社を1,600店舗を持ち、パリに有名な不動産を所有する現代的な食料品流通会社に仕立てあげました。

歌うように話し、6か国語を操り、ウィストン・チャーチルの言葉を引用することを好むこの人物は、シャトー・マルゴーと恋に落ちたのです。

1977年、アンドレ・メンツェロプロスは先駆者となりました。ボルドーのワインは、深刻な経済危機と品質面での危機から脱却しました。それまでは、投資家は格付けされたシャトーに関心を持っておらず、所有者はその所有地を活用する方法を有していなかったのです。

優れた先見の明があったアンドレ・メンツェロプロスは、短期の収益を鑑みずに大型の投資を、まだ光の見えていなかった市場に行いました。20世紀末にやってくるボルドーの新しい黄金時代の数年前のことでした。

その行動は、ブドウの畑や醸造室、そしてシャトーにおいても優れたものでした。排水を整え、再植栽を行うなど、さまざまな取り組みを行ったのでした。有名な醸造技術者エミーユ・ペイノーの情熱的な監督により、彼はパヴィヨン・ルージュ・ドゥ・シャトー・マルゴーを復活させ、そのセレクションを大幅に増やしました。また、パヴィヨン・ブラン・デュ・シャトー・マルゴーを見直し、新しい大樽を使用した熟成方法を導入し、地域最初の大きな地下醸造室の建設計画を立てたのです。まさに大きな技術的な快挙と言えるでしょう。1946年から歴史遺産に指定されているシャトーは、Monuments Historiques de Franceの監督のもと改築されました。このシャトーの装飾は、有名な装飾デザイナー、アンリ・サミュエルによって手がけられています。彼はMetropolitan Museum of Artの18世紀のフランスの間も手掛けています。

アンドレ・メンツェロプロスはこのようにして、建築遺産とワインの遺産の再建に大々的に取り組みました。その目的は、テロワールが新たに素晴らしい品質のブドウを作り出すことができるようにというものでした。

1978年のシャトー・マルゴーのミレジメはすぐに優れたワインとして市場に受け入れられました。これは、アンドレ・メンツェロプロスの取り組みの成果とその重要性の証なのです。

彼は1980年他界しました。シャトー・マルゴーのルネッサンスを見るにはまだ早すぎる死でした。彼ほど、短い間にこれほど重要な役割を担った所有者はシャトー・マルゴーの歴史の中ではいなかったでしょう。